天使の落とした涙の中に #2
十一月の最後の金曜日、僕はクラブで帰りが少し遅くなり、まず晩飯を食べて風呂に入り親が帰ってくるまで居間でテレビを見ていた。部屋に上がったのは十時半を回っていたと思う。ベッドに横になり、何気に机の上を見た。見覚えのない白い箱がある。見間違いか?僕は起き上がった。今朝、あんなところに箱なんて置かなかった。親は僕より少し前に家を出ているし、誰かが置くなんてありえない話だ。すると突然その箱が部屋いっぱいに光り始めた。僕は目が眩み、一瞬何もわからなくなった。どれくらい光っていたのだろう。たぶんほんの何秒かだったと思う。それでも光が消えた後も、しばらく僕は周りが見えなかった。
「いったい…?」
僕はつぶやいた。その箱は僕が気がついたときと同じようにそのまま机の上にあった。恐る恐る僕は机に近づいた。箱に蓋はない。そっとのぞいてみて、僕は飛び上がるくらい驚いた。きっと腰を抜かすなんて感じはこんなときに起こるんだろう。僕はかなりのパニック状態だった。なぜならその箱の中には五センチくらいの、ほんとに例えるなら女の子がカバンなんかにつけているようなキューピー人形が入っていて、しかもそれは人形なんかじゃなくしっかりと動いていたからだ。
何をどうしたものか。僕は現状がつかめないでいた。夢か?錯覚か?疲れてんのか?僕はぶるぶるっと頭を振って、きっと気のせいだ、ということにしてもう一度箱の中を見た。…いる…。両手をしっかりとにぎりしめて、まるで赤ん坊のようだった。赤ん坊?ふと僕は怖くなった。これはもしかして水子の霊とかいうやつか?莉那の堕ろした子供が僕を怨んで出てきたのか?そう考えるともう恐怖でしかなかった。怖くてたまらない。思わず叫びたくなるような衝動にかられながら、僕は箱の中を凝視していた。
しばらくして気がついた。その人形のような得体の知れないモノが箱の中で小刻みに震えている。寒がっているのか?霊が?そう思ったとき、僕はなぜだか突然何のためらいもなく箱の中に手を入れ、その赤ん坊のような人形?を手にのせていた。
暖かい!
気のせいか?いや、違う。それはちゃんと手の中にいたし、体温を感じることもできた。けれどどうしたものか。この後僕は何をすればよいのかわからず、しばらく突っ立っていた。この子の震えは止まっている。何が何だかわからないが、とりあえずこの子は実在して生きているようだ。
そのとき突然ドアをノックする音がした。
僕は本当に飛び上がるくらい驚いた。ドアが開いて母親が顔を出す。
「洗濯物ここにおくわよ。…なにそんなびっくりした顔で突っ立ってるの?」
母は不思議そうに僕の顔を見た。
「これ…」
と僕は両手を差し出した。呆然としている僕をあきれた顔で見ながら母は言った。
「何、手汚れたの?じゃお風呂に入りなさいよ。まだ入ってなかったの?」
ドアが閉まって母が去っていく足音を聞きながら僕は固まっていた。手の中にははっきりこの子が眠っている。なのに母には見えないのか?
もうどうなっているのかわからなかった。
そのとき、この子が少し身動きした。心臓が止まるかと思った。もう少しで僕はこの子を床に落とすところだった。僕は母の持ってきた洗濯物のところへ行き、タオルを一枚取った。机に戻って箱の中にそれを敷きその上にこの子をそっとおろした。少し身動きしたが眠ったままだ。僕はそっと机を離れ、とにかくもう一度風呂に入ることにした。
バスルームで僕はお湯の中に沈みながら、ゆっくり今起こったらしいことを考えてみた。どう考えても非現実的だ。やっぱり気のせいだったのか?あんなにはっきりと母に見せたのに、母は気がつきもしなかったし、顔色ひとつ変わらなかった。もしかして母が仕込んだのか?僕は疑った。けれどそんな手の込んだいたずらをするような母ではない。第一あんな人形をどうやって用意するんだ。
結局わけのわからないまま風呂を出て、さっきのことが気のせいでもうあの箱がないことを祈りつつ部屋へ帰った。ドアを開け机の上を見る。箱は、まだあった。静かに近づいてのぞいてみる。あの子はいなかった。よかった、やっぱり気のせいだったんだ。そう思ってタオルを引っ張るとその間からあの子が出てきた。
「うわあっ!」
思わず僕は叫んだ。そのときその子が目を開け、僕を見た。くりっとした小さな目が僕をじっと見つめていた。
「君は…、誰?」
小さな声しか出せなかった。
「ボクハ、ボクダヨ」
返事が返ってくるなんて思わなかった。
「名前は?」
「ナマエッテナアニ?」
「何って、なんて言うんだろう?君を呼ぶときにいるんだけど…」
僕は上手く説明できなかった。
「ナマエッテミンナニアルノ?」
「そうだよ、僕は和也」
「カズヤ?」
「そう」
沈んだ表情をするのを見ながら僕はさらに聞いてみた。
「親とかさ、誰かが君の呼び方を決めてくれなかったの?」
「オヤ?オヤッテナアニ?」
「お父さんとお母さんのことだけど…?」
僕がそういった途端目を丸くしてタオルの中にもぐりこんでしまった。
「どうしたの?」
「ボク、ボクハダレモナマエヲキメテクレナカッタヨ」
タオルの中から小さな声が返ってきた。
「ボクニハナマエヲクレルヒトガイナイ…」
どうやら泣いているようだ。困ったな…と僕は考えて名案が浮かんだ。
「じゃあこうしよう。僕が君に名前をつけてあげるよ。そうだなあ…」
考えているとタオルの下からそっと顔を出してきた。何だかハムスターのようだ。と思った。でもさすがにハムスターなんてつけたら可哀想だと思い、いろいろ考えてみた。
「ボクノナマエ?」
涙に濡れた目でじっと僕を見つめている。ものすごく期待したまなざしだ。
「うん、名前だよ。ちょっと待って」
僕は十分くらい考えていた。その間ずっとこの子は僕を見つめ続けていた。
「シリウス…」
何気に僕はつぶやいた。
「シリウス!!」
即座に叫ぶ声が返ってきて僕はものすごく驚き、彼を見た。
「ぼくの名前はシリウスだね!」
嬉々として箱の中で踊っているような感じだった。違うんだけど…と心の中でつぶやいたが、この子の喜んでいる姿を見て、シリウスも悪くないか、と思い直した。シリウスは星の中でも有名だし、この子はまるで星の光の中から出てきたみたいだったからぴったりだと思った。まるでマンガだけど。
「よろしくね、シリウス」
「うん、カズヤ、ありがとう」
僕はいつの間にかシリウスの存在を受け入れていた。ほんの少し前まではものすごく不安だったのに、こんなにも非現実的な現実を不思議とも思わなくなっていた。
「シリウス、今日はもう寝よう。明日は土曜日だし、クラブも早く終わるから。それまで一人だけど待っててよ」
「カズヤ、どこへ行くの?」
「学校だよ。まだ高校生だからね」
「ガッコ?コーコーセ?よくわからないや」
「うん、また明日いろいろと教えてあげるよ。さあ寝よう。シリウスはそこでいい?」
シリウスは箱の中を見回した。そして少しうつむくと、
「カズヤのところがいい」
と小さな声で言った。寝ている間に僕が押しつぶしてしまいそうな気がしたが、シリウスを見るとイヤとは言えなかった。
「いいよ。じゃあこっちにタオルを持っていってあげるよ」
僕は箱の中に手を入れ、シリウスごとタオルを取り出しベッドへ連れて行った。シリウスをベッドの上に下ろすと彼は喜んで布団の上を転がりまわった。その間に僕はタオルを小さな寝袋風にたたみ、枕元に置いた。
ひょっとシリウスを見ると布団の中で丸くなって眠ってしまっていた。僕は思わず少し笑って、彼をタオルの布団へと移し、僕もその隣で横になった。
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