天使の落とした涙の中に
あなたは知っていますか?
この世に在る命を
守るべきものを
尊きはなにかを
今一度考えてください
生命とはなにかを…
命の重みなんて考えたこともなかった。 僕たちの年代はその日の生活に満足していればそれでよかった。 誰かが傷ついていたってそれは単なる他人事で、気にするほどのことでもなく、ましてや目に見えないことまで気に掛けるはずもなかった。 僕だって、実際自分の身に起こったことでなければこんなにも色々と深く考えることはなかったはずだ。 あの一ヶ月間が、僕に命の大切さを、人間が本来持たなければならないモラルのようなものを教えてくれた。 僕は高橋和也、M高校の二年。サッカー部に所属。レギュラーではないが準レギュラーでそこそこ試合にも出ている。といっても、サッカー部自体がそれほど強くもないから言うほど目立つこともない。当たり前だがこれ以外に何の肩書きも持っていない。他愛もない高校生活。僕も普通一般の単なる高校生だった。一年のときから付き合っている莉那とは一年半。よく喧嘩もするけど結構うまくやっているほうだ。僕の親は飲食業をやっていてほとんど家にはいなかった。だからクラブのない日曜日なんかはよく莉那と二人で過ごしていた。ゲームをしたり、ビデオを見たりしながらやることもきっちりヤッていた。莉那はいつもちゃんとコンドームを持ってきていていた。初めのころは僕も持っていてちゃんと使っていたけれど、一年を過ぎたころからだんだんと面倒くさくなっていて、莉那の「今日はダメ」と言う日以外はあまり使わなくなっていた。
その日は突然やってきた。昼休み、莉那に呼ばれて僕は屋上へ行った。朝登校するときから莉那の様子は変だった。あまり話もせず、時々遠い目をしていた。僕は別れ話だと思っていた。けれど彼女の口から出た言葉は違っていた。 「和也、私妊娠してるみたいなの」 僕には、莉那の言っている言葉が理解できなかった。 「まさか、冗談だろ?」 僕はそう言うのがやっとだった。他になんと言っていいのかわからなかった。 「冗談?冗談でこんなこと言うわけないじゃない」 怒っていた。彼女は僕を睨みつけた後、静かにため息をついた。 「どうしよう…」 「どうしようって、言われても…。どうするんだよ」 まさか、だった。学校の中でそんな話を耳にしたこともあった。けれどまさか自分がその立場になるなんて思ってもみなかった。明らかに僕は動揺していた。莉那のことを考える余裕なんて少しもなかった。考えたのはただ、どうすれば自分に害が及ばないか、ということだけだった。無言でいる僕に莉那はポツリと言った。 「産めるわけ…、ないよね」 その言葉を聴いて僕はそのとき初めてまともに莉那の顔を直視した。 「産むつもりだったのか?」 「わからない。けど私、和也のこと好きだし、好きな人の子供が私のお腹の中にいるのよ。やっぱり…」 莉那は自分の腹部に手を当てて、ゆっくりと撫でながらそこで言葉を切った。彼女は僕が考えている以上に悩んでいたんだ、ということに気付いたのはもっと後になってからだった。このときに僕が莉那に対してもっとちゃんと考えていれば良かったのかもしれない。けれどそんなことは結果論であって、そのときの僕はただの大人の振りをした子供だった。
それからの僕たちはそれぞれに大変だった。結局彼女は子供を堕ろすことになり、僕は両親に散々怒られた後(母は泣き続け、父は僕を殴り飛ばした)莉那の家に行き、僕と両親の三人そろって莉那の両親に頭を下げまくった。僕は最後まで莉那としゃべることはなかった。 彼女は一週間学校を休み、僕も三日間停学をくらった。もちろん学校では散々うわさが流れていた。親からはとにかく家から一歩も出るなといわれ、携帯も取り上げられた。 三日間僕は一人きりだった。無性に苛々していた。なんで僕がこんな目に合うのか…そればかり思っていた。父や母は普通にしていたつもりだっただろう。けれど僕には嫌悪感を覚える、居心地の悪い空間だった。部屋にこもって、両親が出かけると居間でテレビを見て過ごした。おもしろくもなんともないテレビ。つまらないワイドショー。退屈な昼ドラマ。再放送の番組。だらだら過ごす時間が腹立たしかった。外に行けないことはない。でも僕はそうしなかった。僕に起こった事実を認めることはできなかった。
僕が謹慎処分明けに行った学校は、家よりももっと居心地が悪かった。クラスの女子の目はあからさまに冷たかった。僕が行く先々で、誰かが僕を見て囁いている。なんで僕が責められているんだ。なんで僕がこんなに嫌な思いをしなければいけないんだ?その思いだけが僕に付きまとった。 せめてもの救いはクラブだった。監督は特に何も言わず、いや、一言いってたっけ。 「自分のことだ。ここには関係ない。ボールを、チームメイトだけを見ていろ」 なんとなくだったけれど、ここには僕の居場所が確保されている気分になれた。 問題が起こったのは、そのすぐ後だった。 僕は練習の準備をするために、他の部員たちとグラウンドに出た。すぐ隣で陸上部が同じように練習準備をしていた。 「あいつだろ。ほら、5組の女子の…」 嫌でも僕の耳に届いた。あざけるような口調。そいつらははっきりと僕を見ていた。僕はカッとなった。 「なんだよ!そんなに珍しいかよ!」 僕は飛び出した。慌てて周りのサッカー部員たちが僕を押さえた。 「やめろ、和也!相手にすんな」 「離せよ!あいつら、許さねえ!僕の何を知ってんだっていうんだよ!」 「なんだよ、やんのかよ」 相手も前に出てきた。僕は何が何でも一発殴ってやりたかった。僕だって被害者なんだ!僕だって好き好んでこんな状態になったわけじゃない。それしか考えられなかった。 「和也!いい加減にしろ!また停学だぞ!」 僕を押さえていた部員たちは、力ずくで僕をその場から引き離した。むりやり部室に連れ戻された僕は、怒りのやり場がなくなってあたりかまわず暴れた。ロッカーを蹴飛ばし、壁を殴り、頭を抱え込んだ。 「ちくしょう!なんでこんな目に合うんだよ!ちくしょう!」 部員たちは何も言わず、静かにその場に立っていた。誰も何も言わなかった。部室の中には僕の罵声だけだった。しばらくして、一人が声をかけてきた。 「和也、もういいだろ。俺たちはお前のこと知ってるよ。言いたい奴には言わせとけよ。だからもう止めろよ」 「何がわかってんだよ。お前らだって僕のこと笑ってんだろ。もういいよ」 「いい加減にしろよ!本当にそう思ってんなら、止めたりしないよ!少しは落ち着けよ!」 僕は周りを見回した。みんな僕を見ている。僕はふっと肩の力が抜けた。 「ごめん、みんなに当たっても仕方ないよな…今日はもう帰るよ」 ロッカーから荷物を取り出した。力なく部室を後にしようとした時だった。 「明日は練習来いよ」 振り返るとその場の全員が僕にガッツポーズをして見せていた。 「サンキュ」 僕は久々に笑顔になれた。 この日のことは危うく大事にはならなかった。先生の耳に届いたのかどうかは知らない。けれど僕は呼び出しを受けることもなかった。もう僕は周りが気にならなくなった。忘れることにした。そうすれば楽だったから。 そんな話を莉那は誰かから聞いていたのだろう。学校に出てきた莉那は、僕に話しかけてくることもなく、僕も彼女になんと言っていいのかわからず、結局自然消滅みたいになってしまった。
僕たちのうわさもあまり聞かなくなったころから僕はなんだか寂しさを感じるようになった。けれどやっぱり莉那に話しかけることはできず、取り上げられた携帯がようやく僕の手元に戻ってきてもメールを打つ勇気さえ出なかった。 もう、忘れよう。全てを。何もかもを。過去にしてしまえばいい。そうすれば楽になれる。 僕はそう信じることにしたんだ…
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