天使

2009年2月 6日 (金)

天使の落とした涙の中に #17 to end

僕は立ち上がった。そして上着を取ると決心を決めた。シリウスは僕に勇気をくれた。僕が今しなければならないことは一つしかなかった。携帯を上着のポケットに突っ込み、僕は部屋を飛び出した。暗い街の中を走りながら僕は携帯を取り出し、一つの番号を呼び出した。

「もしもし、莉那?今から莉那の家に行くよ。話があるんだ。どうしても今聞いて欲しいんだ、後十分くらいで着くから出てきてくれないか」

見慣れた町並み。けれど僕の世界は変わっていた。僕は言わなければならない。あの時言わなければいけなかった謝罪の言葉を。いい加減だった僕が傷つけてしまったのは他の誰でもない、莉那だったんだ。今一番苦しんでいるのは莉那だ。シリウスが行ってしまって悲しいのは僕よりも莉那なんだ。僕は走った。

「和也!」

向こうから莉那が走ってくるのが見えた。莉那の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。僕は力いっぱい彼女を抱きしめた。

「悪かった、莉那。本当にごめん。あの時お前のこと何も考えてなかったよ。つらい思いをさせてしまって、何もできなくて…、本当に悪かったよ。謝って済むことじゃないってわかってるけど。本当はあの時に言わなきゃいけなかったのに」

莉那は僕の腕の中で首を振っていた。

「和也、行っちゃったの。あの子が…、あの子が…」

「わかってる。莉那、わかってるよ。僕のところからも行ってしまった」

僕は莉那をずっと抱きしめていた。しばらくして彼女は途切れ途切れに話し出した。

「私、子供を堕ろしたときからずっと悩んでいたの。本当にこれでよかったのかって」

僕は彼女の目をじっと見つめて聞いた。

「ずっとずっと考えてた。そしたら突然あの子がきたの。真っ白な服を着て窓のところに座っていたわ。私を見つめて言ったわ、僕シリウスって言うのって」

僕は驚いた。僕のときと同じように莉那のところへ現われたのだと思っていたけれどシリウスは僕のところへ先に来ていたのか。

「僕、ここにいていいかなって聞くから、私いいよって言ったの。でもあの子すごくやんちゃだった。突然机の上をめちゃくちゃにしたり、私のノート隠したりとかずっといたずらしていたわ。何回怒っても駄目なの。私すごく怒ったときがあった。そしたらあの子震えて、隠れたっきり出てこなくなったの。どこに隠れてるのかわからないからずっと探したわ。その時は見つからなかったの。でもね、眠るときは私のそばでないと眠らないの。夜になったらこっそり出てきて机のところにいたのよ。私が知らんぷりしてたらちっちゃな声でね、ごめんなさいって言ったわ」

あのときだ。シリウスは僕に謝り方を聞いてきた。

「私、もう怒ってないよって言って抱いてあげたわ。そしたらすごく嬉しそうな顔してね。私、母親ってこんな感じなのかなって思った。怒ったり、許したり。それからはあんまりいたずらしなくなったわ。私の肩に座って歌を歌ったり。なんでかわかんないけど和也の好きな歌ばっかり歌ってるの。それにあの子ね、時々和也そっくりのしぐさをしてたわ。まるで小さな和也がそばにいるみたいだった」

莉那のところにいたシリウスは幼い子供だったんだ。僕のところにいたシリウスとシンクロして成長していたんだ。僕がシリウスと過ごしたことが莉那のシリウスに影響を与えていたなんて。

「私楽しかった。一緒に学校へ行ったり、遊んだり、いろんなことして二人で過ごしたわ。あんなに楽しかったのに今日いきなりシリウスがもう一人現われたの。まったく同じよ。違ったのは羽があったことだけ。わけがわからなかった。だって突然シリウスが二人になったのよ。羽のあったシリウスは私に言ったわ。今まで僕といてくれてありがとうって。僕たちがいなくなったらつらいかもしれない。でも君には支えてくれる人がたくさんいるよ。だから悲しまないでって。すごく大人っぽかった。最後に二人で私を振り返って手を振ってくれた。いつも和也が別れるときにする笑顔で。そしてそのまま消えて行ったわ」

僕は莉那の肩をしっかり抱いた。そして僕の話をした。シリウスが僕の前に現われたときのこと。僕が名前をつけたこと。シリウスと過ごした時間のこと。僕がどんなことをシリウスに話していたのかを。そして、シリウスと別れるときに話したこと。シリウスがなぜ僕たちの前に現われたのかも。莉那は黙って僕の話を聞いていた。話し終わっても莉那は一言もしゃべらなかった。じっと何かを考えていた。

「莉那?」

しばらくたって僕はそっと聞いた。莉那は僕から離れると少し歩いて僕を振り返った。

「私、ずっと和也のことを許せなかった。でも許せなかったけど、ずっと和也のこと考えてた。あの子と…シリウスと一緒にいると和也を思い出したの。何だか、単身赴任の旦那さんを待ってる親子みたいな感じかな。和也が私たちのところに来てくれるような気がしてた」

僕は黙って莉那の言葉を聴いていた。

「こんな風に誰かのこと想えるなんて、初めてだった。許せなくて、悔しくて、でもやっぱり会いたくて…。シリウスはずっと私のそばにいたわ。ずっとそばにいて、和也のこと考えさせてくれた。シリウスはいなくなったけれど、和也は来てくれた。嬉しかった。和也の声を聞いた途端、会いたくてたまらなかったってやっと素直に思えたの。私のシリウスは何も言わなかったわ。でもね人を大事に、愛おしく想って育てる気持ちを私にくれたわ。あなたも父親の役目を果たしたのね。だからあんなに立派でしっかりしたシリウスが誇らしげな顔で私のところに来てくれたんだわ。」

莉那はふうっとタメ息をついた。でもその表情には悲しげな顔はなかった。

「ねえ、和也。私たち、この一ヶ月間で変われたのよね。シリウスと一緒に過ごしたことで、たくさんの大切なことを学んだのよね」

「そうだよ。今まで考えもしなかった大切なことをシリウスは僕に教えてくれた。でも僕はまだまだ変わらなきゃいけない。もっとしっかりした一人の大人にならなきゃいけないんだ。シリウスとの約束を果たすためにね」

「約束?」

「そう、僕はシリウスに言われたんだ。シリウスと過ごした時間を無駄にしないでって。僕たちならいつまでもシリウスと過ごした時間の大切さを想っていられるって信じて帰っていったんだ。だから僕はその期待に応えなきゃならない」

僕は自然と空を見ていた。シリウスの世界がどこにあるのかもわからないけれど、空を見上げて、きっとこの広い空間のどこかからシリウスが僕らを見ていてくれているような気がしていた。莉那も僕の隣に来て空を見上げた。

「そうね、私たちこれからもシリウスのこと大事に想って生きていかなきゃいけないわ。これからずっと…」

僕たちの頭上には満天の星が輝いていた。僕たちはこれからも生きていく。人の命の尊さを感じて生きていく。世界中の全てのものに宿る命の中で。全ての命とともに。永遠に変わらない、いや変えてはいけない。誰もがいつかは気付かなくてはいけない、そして忘れてはいけないこと。

天使の落とした涙は教えてくれた。

生命とは生きてこそ。

一番守らなくてはいけないんだ。

生きる、という幸せを…

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天使の落とした涙の中に #16

シリウスの体が白く輝きだした。シリウスの瞳が僕をじっと見つめた。僕は急に不安になった。

「シリウス、どうしたの?」

シリウスは静かに、そして少し悲しそうに微笑んだ。

「和也、もう行かなくちゃ」

「行くって、どこへ?だめだよ、シリウス。もっと僕と一緒にいてくれよ。僕はきみといたいんだ」

「僕は帰らなきゃいけない。僕がここへ来たときから決まっていたんだ。僕にはチャンスが与えられた。僕はその時間を充分に生きた。和也と一緒に。そして莉那とも。だからもうこれ以上ここにはいられないんだ。君たちは自分のこれからの時間を生きなければならない。これ以上過去に生きちゃいけないんだよ。君たちには未来がある。いつまでも僕にとらわれちゃだめなんだ。和也と莉那はきっと僕がここにいた時間を大事にしてくれる。記憶の片隅に僕の居場所を作ってくれる。僕は信じてるよ、和也と莉那を。僕のいた時間を決して無駄になんかしないって」

「待ってよ、シリウス。まだ駄目だ。僕にはシリウスが必要なんだ。もう少し、後もう少しここにいて欲しい。僕と一緒にいてくれよ」

僕は必死にシリウスに頼んだ。シリウスの体はますます輝きだした。

「さよなら、和也。僕は本当に幸せだったよ。和也、ありがとう」

「待って!シリウス!」

そのとき、部屋中にシリウスの光が広がった。僕は一瞬目が眩んだ。どれくらい光っていたんだろう。きっとほんの何秒かだったに違いない。光が消えても僕はしばらく周りが見えなかった。やっと目が慣れたとき、そこにシリウスの姿はなかった。僕は呆然とした。

「…シリウス?」

僕は周りを見回した。

「シリウス?どこにいるんだい?」

部屋中を探したが、シリウスはどこにもいなかった。それでも僕はシリウスを探し続けた。

一時間ほど探していただろうか、僕はよろよろと窓辺に寄りかかった。そのとき僕の手に柔らかいものが触れた。見るとそれはシリウスの羽だった。僕は真っ白なその羽をそっと手にとるとその場に泣き崩れた。シリウスはもういない。シリウスの笑顔を、もう見ることはできない。僕を信頼して、僕を頼ってくれたシリウスは行ってしまった。その事実を受け止めながら僕は泣いた。シリウスははじめてここに来たときと同じようにまた光の中へ帰っていった。彼は僕の光だったのかもしれない。

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天使の落とした涙の中に #15

しばらくの間沈黙が続いた。僕も黙ったままシリウスの頬を伝わる涙を見ていた。まるで水晶のような涙。瞳にゆっくりとこみ上げて小さな水晶になり、キラリと光って頬を流れていく。そしてあごの先でもう一度小さく光を放って落ちていく。その間にまた新しい水晶が流れていく。シリウスの涙を見つめているうちに僕の気持ちが洗われて行くような気持ちになった。もちろん僕の犯した罪が消えてなくなる訳ではないけれど素直な気持ちで僕の過去を受け止めることができそうだった。

僕は莉那のことを思った。莉那のところにもシリウスと同じ命がいるんだ。シリウスが僕に自分のことを話したということは莉那の所にいるシリウスもきっと莉那に同じ事を話しているのかもしれない。莉那はどんな気持ちなんだろう。あいつはあの時子供を産みたいと言った。その気持ちを打ち明けたのは恐らく僕にだけだろう。莉那はお腹に宿した命と向き合っていた。短い間だけどその命とともに過ごしていたんだ。その子と別れたときはいったいどんな気持ちだったんだろう。そして今、その命が再び僕たちの前に現れて話した内容は、どんなに辛いものだろう。莉那はきっと自分を責めているだろう。見捨てた命。僕たちは命を守りきらなかったんだ。

僕の心は震えていた。僕たちの子供になるはずだったシリウス。僕はシリウスを見つめた。けれど僕の目も涙にくもっていた。シリウスの顔が見えない。僕は自然とシリウスに手を伸ばしそっと彼の体を両手ですくい上げた。

「ごめん、シリウス…。本当にごめんよ。僕は…」

僕は言葉を続けることができなかった。両手の中のシリウスを感じれば感じるほど僕の涙は止まらなかった。でも言わなければ、僕はきっと一生後悔するだろう。僕は深く息を吸った。

「シリウス、君は望まれるべき命だった。僕たちの不注意で君は誕生することのない命になってしまったんだ。僕たちは当然しなければならない注意を怠ったんだ。特に僕が…。僕たちは責められなければならないのに、君は僕に、そしてきっと莉那にも命を考える時間を与えてくれたんだね。こんな中途半端な僕に。僕は、今まで何も考えてなんかいなかったよ。君といた時間だって、なんだか不思議だけれど、それだけだったんだ。シリウス、僕は君に何もしてあげられなかった。どうしたってつぐなうこと、できないよ。僕の命を君にあげたい。今ここに生きている僕の時間を君に…」

「違うよ、和也。僕は和也に命をもらったんだ。和也でなければ僕は存在しないんだ。和也がいるから、僕はいるんだよ。和也は僕の、お父さんなんだ」

「…お父さん…、か。どうしようもない父親だよ、僕は。人の苦しみをわかろうともしない、自分勝手な男だよ。お父さんなんて呼んでもらえる資格はないよ」

「違うって、僕には和也しかいないんだ。僕のお父さんは和也しかいない。僕がこうしてここにいることができたのは和也がずっと僕を育ててくれたからだよ。僕を見守ってくれた。僕のそばにいてくれたんだ。他に何が必要なの?僕は和也といれて幸せだったよ。幸せだった、心からそう思ってる。それだけじゃだめなのかな…?」

「わからない。僕にはよくわからないんだ。シリウス、君には生まれてきて欲しかった。僕は莉那に産んでもらわなければいけなかったんだ。どうしてあの時、僕はもっとちゃんといろいろ考えなかったんだろう。本当にごめんよ」

僕は、手のひらの中で僕を見つめるシリウスに頭を下げた。いや、違う。本当はシリウスのことまともに見ることができなかったんだ。シリウスの翼が手のひらをくすぐった。シリウスが翼を広げていた。

「聖なる大天使ミカエルの翼は、試練を終えた命に与えられるもの。僕が欲しがっても、この翼は手に入らない。ミカエルが与える使者の羽じゃない。ミカエルと同じ翼は命を与えた者の真の愛情が育てるんだ。つまり和也が僕の背中に翼を与えてくれたんだよ」

シリウスは誇らしげに翼を何度も羽ばたかせた。

「僕が和也に愛された証拠だ」

シリウスの体が宙に浮いた。翼が静かに羽ばたいている。僕はシリウスの姿に見とれた。

「僕を誇りに思ってよ、和也。君の子供はすばらしい翼を持っていたって。それをくれたのは間違いなく和也なんだ」

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天使の落とした涙の中に #14

僕は目眩

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がしそうだった。何が起こっているのか、判断がつかなかった。体が震えていた。

「僕は、和也たちを恨んでここにきたわけじゃない。それは信じてくれるよね?」

シリウスの言葉は静かで、優しかった。まるで親が子供を諭すような…そんな感じだった。僕は返事をしようとしたが言葉にならなかった。ただ小さく頷くのが精一杯だった。

「この世界に、命ってたくさんあるよね。人間だけじゃなく、動物や、植物。あるもの全てに命があるんだ。しゃべらなくても、動かなくても…全てに命があって、その命は巡り、巡っている。この世と、あの世で。常に繰り返されているんだよ。僕はあの世ってあんまり好きな言葉じゃない…僕のいた世界は命の集まるところっていうのかな。そういうところなんだ。命尽きて帰る場所。そこにはね、僕のような産まれて、この世界で生きることのできなかった命はたくさんいるんだ。誰も気がつかないけどね」

シリウスは遠い目をした。僕は何も言えなかった。

「僕らの世界ではいくつかの選択肢があるんだ。そのまま僕らの世界で過ごすことも選べる。再生を待つこともできる。違う命になることもできる。例えば、人間じゃなくて、鳥や植物になったりとかね。そうすることでこの世界に再生する。みんな本当は再生したいんだ。でも望まれなかった命だということもみんな知ってる。だからほとんどみんなが人間としての再生を希望しない。人間としての再生を願うのは望まれていたのに産まれることのできなかった命だけさ。望まれていた命だけ…。天界に入って寿命を全うした人たちと暮らすこともできる。使者として死んだ人を迎えに行ったり再生者を送り届ける仕事をすることもできる。人の生死は世界中で休むことなく繰り返されているから」

シリウスはいったん言葉を切って僕を見た。その目はとても澄んでいた。吸い込まれそうなくらいだった。

「でも僕はどれも選ばなかった。僕は知りたかったんだ。僕が人間として見ることのできなかった世界を。僕たちは本当に望まれていなかったのかを。だから僕はここに来た。もう一人の僕とね」

「もう一人のシリウスって?」

シリウスは静かに微笑んだ。

「もうひとりの僕は和也の彼女のところにいるよ。莉那のところにね。つまり両親になるはずだった人のところへ帰るんだ。ひとつの命を二つに分けてね。僕たちは愛情を求めている。僕たちにだけ注がれる愛情をね。

けれどみんな真実を知るのが怖い。愛情がなかったことを突きつけられたら僕たちの命は完全にこの世からなくなるから。そうなったらもう再生することはない。だって本当に僕たちの命としての存在自体がなくなってしまうんだ。しかも両親二人ともの愛情がそろわなければならない。確率はゼロに近いよ。たいてい僕たちの命の数割くらいは母親の愛情を受けることはできるんだ。でも父親の愛情はほとんどない。だって僕たちは単なる失敗なんだもの。罪の意識なんて少しも持っていない人ばっかりだよ。酷い人なんて僕たちを何人も作り出しているんだ。僕も最初はだめだと思った。けど和也は僕を受け入れてくれた。嬉しかったよ」

「僕も同じだよ」

僕はつぶやくように言った。

「莉那が妊娠したって言ったとき、僕はショックだったんだ。失敗したってね。僕だって同じなんだよ。罪の意識なんかこれっぽっちもなかったんだから。君が僕のところに来たとき本当に怖かった。消えてくれって思ったんだ」

「そうかもしれない。けど、和也は僕を抱いてくれた。震えてた僕にタオルをくれた。僕はそれだけでも十分だったんだ。そのあとも和也は僕を大事にしてくれた。いろんな事を教えてくれた。僕と一緒に過ごしてくれた。そして僕は羽を持つことができた。聖天使と同じ聖なる翼だよ。

命の重さを知ることは、ポーズじゃできない。ほんとに心から命を愛おしいと思わなければ人の命を守り抜くことなんてできないんだ。義務感じゃない。犠牲でもない。命って簡単じゃないんだ。それに気がついている人なんてほとんどいないよ。理解してできるものじゃない、本能だよ。全ての生命体が持っている本能には命の重みを感じる能力が備わっている。けれど人間は知能をどんどん発達させた。人間は自分たちの世界を豊かにしていくと同時に本来の生命の能力を片隅に追いやっていったんだ。それが一番大切だったのに…」

シリウスは言葉を詰まらせた。僕には返す言葉がなかった。ただ黙ってシリウスを見つめていた。それでもシリウスをそっと抱きしめてやりたいと思ったけれど手を差し伸べる勇気がまだなかった。

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天使の落とした涙の中に #13

クリスマスイヴの夜だった。僕は買ったままにしていたサンタの服をシリウスに着せた。シリウスは大喜びでクルクル回り、やはり自分の服にした。かわいい…僕はふと携帯を取り出し、シリウスの姿を撮ってみた。写らないだろう…と思いながら。画面にはやはり写らなかった。かわりにシリウスのいるはずの場所に薄い金色の光が映っていた。その光には…翼があった。前に公園で見た小さな羽じゃなく、しっかりと広がった翼。僕はその画面に見入っていた。シリウスが僕を見上げていた。

「和也、何を見ているの?」

シリウスは僕を見つめた。僕もシリウスを見つめた。

「なんでもないよ」

僕は携帯を閉じ、ポケットにしまった。どうして、見せないんだろう?僕は漠然とした不安に捕らわれていた。なぜかシリウスに見せられなかった。

「どうかしたの、和也?」

「ううん、何でもない。大丈夫だよ。ケーキ、食べようか」

僕は笑顔を作り、買ってきたケーキを引き寄せた。部屋の明かりを消して、ろうそくに火を灯した。ゆらゆら揺れる灯火に照らされたシリウスの瞳は、きらきらと輝いていた。いつもと変わりないシリウスの笑顔…僕たちはクリスマスソングを歌い、一緒に火を吹き消した。暗がりの中で僕たちは声を掛け合った。

「メリー、クリスマス、シリウス」

「メリー、クリスマス、和也」

僕はゆっくりと立ち上がり、部屋の入り口に行くと明かりをつけた。

「シリウス、どうだった?」

振り返って息を呑んだ。テーブルの上には、ろうそくの消えたケーキとクリスマス用に母が用意した料理がそのままだった。けれど、けれどシリウスの姿が…サンタ服ではなかった。薄くしなやかな銀色の服…そして…大きく広がった白い翼…僕は言葉を失った。先に口を開いたのはシリウスだった。

「和也…僕の翼を、見たんだね」

シリウスは優しく微笑んでいた。僕は何も言えず、ただ頷いた。

「僕は、和也と同じ人間じゃない。もちろん和也はわかっていたと思うけれど」

シリウスは静かに話し始めた。

「僕がいったいなんなのか…和也、わかる?」

僕を見つめるシリウスの目が一瞬すがるような色を見せた。僕は、その瞳にはっとした。あの時の莉那の瞳…僕に妊娠を告げた彼女の瞳と同じだった。

「シリウス、君は、まさか…」

僕はそれ以上続けることができなかった。言葉が何も出てこなかった。シリウスはほっとしたように微笑んだ。

「そうだよ、和也。僕は、和也と莉那の間にできた、命だよ…」

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2008年12月16日 (火)

天使の落とした涙の中に #9

木曜日の晩だった。僕とシリウスは二人で風呂に入って散々遊んだ後、夕食を食べてテレビを見ていた。しばらくシリウスの姿が見えなくなったが、僕はあまり気に留めなかった。きっとまたなにか「不思議」を見つけてきて、僕のところに走ってくるだろう。

僕はのんびりとソファに寝そべっていた。知らないうちにウトウトしていたらしい。僕の手に柔らかいものを感じて目を覚ました。見るとシリウスが僕の掌に頬を寄せてぴったりとくっついていた。

「どうしたんだい?シリウス?」

僕は半分あくびをしながらシリウスに声を掛けた。シリウスはゆっくりと顔を上げ僕を見ると、悲しい顔をして立ち上がった。僕もシリウスを落とさないように気をつけながら、ソファに起き上がり、座りなおした。

「なにか見つけたの?」

「ううん、ちがうの。ねえ和也、怒ってる人にはなんて言ったらいいの?」

思ってもみない質問だった。僕が寝言で何か言ったんだろうか?

「怒ってる?僕が?」

「ううん。ちがう。あのね、してほしくないことを、もしもしてしまったら、そのことで怒っちゃったら、なんて言えばいいの?」

テレビドラマの話だろうか?僕はシリウスが何を見て、何を感じたのかわからなかった。けれどシリウスは何か真剣に考えている。

「誰かを傷つけたり、嫌な気持ちにさせたらってことかな?」

「よくわからない…」

「うーん、僕だったら、誰かが自分のしたことで怒ってて、それが良くないことをしていたんだって思うんだったら、その人にちゃんと、ごめんなさい、って言うよ」

「ごめんなさい?」

「そう、ごめんなさい」

「ありがとう、和也!」

シリウスはぱっと明るい表情になって僕の掌から滑り下りると、居間から飛ぶように出て行った。部屋に上がったらしい。僕はテレビを消すと、階段を上り、部屋のドアを開けた。シリウスは窓にいた。両手を顔の前で組み、まるで祈っているようだった。僕は静かに部屋に入ると、ベッドに腰を下ろし、シリウスの姿を黙って見つめた。しばらくすると、シリウスは僕のほうを向き、にっこり笑って両手を差し出した。僕は立ってシリウスのところに行くと彼を手に乗せて、窓辺に座った。窓の外はどんよりしていて今にも雪が降りそうだった。

「シリウス、何をお願いしていたの?」

僕はシリウスに聞いてみた。

「おねがいってなあに?」

シリウスはくりくりっとした目で僕を見上げる。僕はまた言葉に詰まった。

「お願いっていうのはね、何だろう?こうなってほしいとか、想うことが叶いますようにってお願いするんだ。ってよくわからないな…」

「じゃあぼく、おねがい、したよ。ちゃんとごめんなさいって言えたらいいなって」

「誰がごめんなさいって言うの?」

「ぼくが」

シリウスは、えへへ、と照れたような笑い方をした。僕はよくわからなかったけれど、シリウスが満足しているようだったからそれ以上は敢えて聞こうとは思わなかった。

「もう、寝ようか。寒くなってきたし」

「うん」

僕とシリウスはベッドに潜りこんだ。暗くした部屋の中でウトウトし始めた僕は、かすかにシリウスの声を聞いた。

―和也、ありがとう―

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2008年12月 3日 (水)

天使の落とした涙の中に #7

「和也!見た?ぼくすべったよ!すごく速かったでしょ!」

シリウスは大興奮だった。僕が捕まえようとすると、はしゃいでその手をかいくぐって走り回った。僕の周りを飛び跳ねながら喜びを全身で表していた。

「シリウス、待って。危ないよそんなに走り回ったら…」

僕が言い終わる前に、シリウスは激しく水たまりに突っ込んでいた。全身泥まみれになって、シリウスはきょとんとした。

「あーあ、やっちゃった。仕方ないなあ」

僕は苦笑いをしながらシリウスを水たまりの中から助け出した。服を脱がせ、持っていたハンカチで全身を拭いて濡れていないところで、体をくるんだ。

「散歩はおしまい。家に帰ろう。体を洗わなきゃ」

「もう帰るの?もう少しだめ?」

「だめだよ。風邪をひいたら大変だ。家に帰って一緒に風呂に入ろう」

「フロ?フロってなあに?」

シリウスの目がまた輝いた。

「あったかいお湯につかって体を温めたり、綺麗に洗ったりするところ。見たいだろ?」

「見たい!!」

「じゃあ帰ろう。少し急いでね」

僕はにやっと笑うとシリウスをジャケットの胸ポケットに入れ、走った。シリウスはポケットの中できゃあきゃあと喜んだ。途中、やっぱりいろいろな質問攻めに合ったけれど、嫌じゃなかった。

家に入ると僕はそのままバスルームに向かった。お湯を張ろうと蛇口に手を伸ばすと、シリウスはもう興味津々で僕のすることをじっと見ていた。シリウスを洗面台の上に乗せ、僕も服を脱いだ。

「和也、一緒だ!ぼくと一緒だ!」

裸になった僕を見て、シリウスは叫んだ。

「そうだよ。僕とシリウスは一緒だ。全部同じだろ?」

「でも、ちょっとちがう」

シリウスは首をかしげた。自分の体と見比べているシリウスの視線が僕の股間にあった。素直すぎるその視線がかなり恥ずかしかった。

「大人になっていくとね、大事なところにも毛が生えるんだ」

照れはしたが率直に答えた。

「だいじなんだ。ふーん」

ほんとにわかったのか?でも聞き流すことにして、浴室のドアを開けた。もわ~っと広がる蒸気にすぐシリウスの興味が移った。

「和也、しろいしろい。なあんにも見えないよ。さっきとぜんぜんちがう。どうして?」

「湯気のせいだよ。空気が冷たいとお湯から湯気がでるんだ。でももう少ししたらここが温まって湯気がなくなるよ。さあ、体を洗おう」

僕は洗面器にお湯を少し張り、その中にシリウスを立たせた。指先で体をこすると、シリウスはくすぐったがって体をよじった。

「あはは、和也、くすぐったいよ。わあ、もうやめてやめて」

両手をばたばたさせて、僕の指を捕まえようとしたシリウスはつかみ損なって洗面器の中で転んだ。あわててすくい上げるとシリウスはケラケラ笑っていた。洗面器のお湯を入れ替えてシリウスの服を洗った。僕のすぐ横をシリウスがすごい勢いで通っていく。僕はびっくりしてシリウスを見ると、シリウスは石鹸の上に座ってそり滑りのようなことをしていた。

「こら!シリウス危ないだろう!」

思わず大きな声を出してしまっていた。僕の声に驚いたシリウスは、勢いがついたまま僕にぶつかり投げ出された。強くお尻を打ったらしい。シリウスは大きな声で泣き出した。

「いたいー、いたあいー」

座り込んでワンワン泣いているシリウスをそっと抱き上げると頭をなでてやった。

「ここはね、つるつる滑って面白いだろうけれど、そんなことをしていると怪我するだろう?痛かったろう?だからもうしちゃダメだよ。滑るのは公園の滑り台だけ。さっき行っただろ?また連れていってあげるから、もう泣かないの」

シリウスはしゃくりあげながら僕を見た。そしてうなづいた。

「ぼく、もうしない。だって和也こわかった。ころんで痛かった。だからもうしない」

「大きな声で怒って悪かったよ。ごめんな。でももう怒ってないよ」

そう言って笑いかけると、シリウスもにっこりした。僕は体についた泡を流してシリウスと一緒に湯船につかった。おぼれるといけないから両手の中にしっかりとシリウスを入れて、僕は歌を歌った。シリウスはじっと聞いている。しばらくしてシリウスはうとうとと眠りだした。外に出て、はしゃいで、遊んで疲れたんだろう。僕はシリウスを起こさないようにそっと風呂を出ると静かに体をふいてやり、服を着せた。部屋に連れて行ってベッドに入れてもシリウスはちっとも起きなかった。見ていると時折にこっと笑っていた。何だか僕は幸せな気持ちだった。

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2008年11月30日 (日)

天使の落とした涙の中に #6

日曜日も雨だった。今日は特にすることもないし、シリウスを外に連れて行こうと考えて誘ってみた。

「シリウス、外に散歩に行かないか?って言っても僕の服のポケットだけど」

「そと?」

「そう、家の外。雨が上から落ちてくるよ。おもしろいんじゃない?」

「行ってみたい!」

シリウスはベッドの上で飛び跳ねた。無邪気なシリウスが可愛かった。青い服を着せると昨日と同じようにシリウスは喜んでくるくると回っていた。そして落ち着くとやはりシリウスのために仕立てたようになった。まるで魔法使いだな。僕は単純にそう思った。驚くというより、もうなんだか当たり前のような気がしていた。僕はシリウスをジャケットの胸ポケットに入れて家を出た。降ってくる雨が見えるように透明のビニール傘をさしてやった。外の空気は冷たく、歩いている人はあまり見かけない。僕は周りを気にすることなくシリウスに話しかけることができた。シリウスが来た金曜日の夜、母はシリウスの存在に気がつかなかった。きっとシリウスは僕にしか見えないんだ。なぜだか僕は絶対の自信があった。

「ほら、シリウス。見てごらんよ、こんなにたくさん降ってくるよ。雨の音とかするだろう?」

シリウスはポケットから落ちそうになるくらい体を乗り出して外を眺めていた。

「和也、あれはなに?」

何度この質問を受けただろう?家を出てからずっとだった。見るもの全てがシリウスの気を引いた。けれど僕はまったく嫌にならなかった。聞かれるものひとつひとつ、シリウスにわかるように説明した。

僕はシリウスの質問に答えながら、物を見る目が少し変わったような気がする。シリウスは普段僕たちが全然気にしないようなことまで見ていた。雨ひとつを取ってもたくさんの質問を繰り返した。車のはじく水しぶき、街路樹の枝や電線から落ちてくる雫、水たまりに広がる波紋の大きさや傘の上を流れる雨粒、道端の雑草にたまっては流れる雨粒、雨を逃れて寄り添いながら時折体を震わせて体についた雨水を飛ばしているすずめ、遠くに煙って見える山並み。雨ひとつがシリウスには何もかもが心躍るような出来事だった。

僕はこんな風にゆっくり周りを見ることなんてなかった。いや、昔小さかった頃僕もシリウスと同じようにいろいろなことに目を奪われては母親に尋ねていた気がする。どうして飛行機は空を飛ぶの?どうして車はあんなに速く走れるの?僕も大きくなったら車みたいに速く走れるかな?…どうして、か。何でも面白かった。蟻の行列をたどっていって虫の死骸を見つけて驚いたり、石ころを集めて宝物にしていたりしていた。僕はいつの間にかぼんやりしていた。

「和也!!」

シリウスが叫んだ。僕ははっと我に返った。目の前は横断歩道で、信号は赤だった。車の往来がはげしかった。

「ごめん、シリウス。考え事してたよ。ありがとう」

「うん、あんなに早く走ったら危ないね。あれはなあに?」

「車だよ。みんなあれに乗って遠くまで行ったりするんだ。雨が降ってても濡れないしね」

「ぼく濡れるの、平気。だって和也と一緒にいるの楽しいよ。雨とかいろんなものがたくさん見れるんだもの」

シリウスは満面の笑顔だった。僕は何だか楽しかった。

雨が少し小降りになってきた。公園へ行くと人の姿はなく、僕はシリウスを肩に乗せた。シリウスのテンションはさらに上がっていった。あまりにはしゃぐので僕は滑り台に座らせてやった。僕より高いところにいるのが少し不安だったのか頼りない顔で僕をみつめた。そっと背中を押すとシリウスは滑り出した。木の葉が流れるようにシリウスの体は滑っていった。勢いがついて一番下まで滑ったときにシリウスの体は止まることなく飛び出した。その軌跡を追うように水しぶきが舞った。まるでスローモーションを見ているようだった。水しぶきがアーチを描き、シリウスの小さな体はその上を滑っているようだった。

雲の切れ間から薄日が射し、まるでシリウスが光っているかのように見えた。その時僕ははっとした。陽の光りを浴びているシリウスの背中に小さいけれどはっきりと透明の翼が広がっていた。天使の翼。僕は突然シリウスの不思議が全てわかったような気がした。

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2008年11月23日 (日)

天使の落とした涙の中に #5

ぼんやりしたまま家に入り、何気なくいつも通りに部屋へ入った。

「おかえり!カズヤ!」

僕は一瞬心臓が止まったかと思った。シリウスのこと忘れていたんだ。

「た、ただいま」

「ずうーっとここから見ていたんだ。カズヤが帰ってきたらすぐにわかるように」

シリウスはニコニコと窓辺で両手を広げていた。僕ははたと気がついた。朝は箱の中に入ってもらったのに、どうやって外へ出たんだ?しかも窓までかなり距離があるのに…?シリウスは嬉々として窓ガラスに当たる雨粒を指でなぞっている。僕は箱の中をのぞいてみた。タオルはそのままで朝入れたビスケットはほとんどなくなっていて、牛乳も少し減っている。でもどうやって箱の外へ出たのか、そんな形跡はひとつもなかった。

「シリウス、おいで」

窓の雨粒と一緒に踊るようなしぐさをしていたシリウスが振り返る。そして僕に両手を差し出した。まるで赤ん坊が抱っこをせがむように。僕はシリウスを手に乗せるとベッドの上に座って今日買ってきたものを広げて見せた。箱をひとつひとつ開けるとシリウスの顔に満面の笑顔が広がった。

「これ、ぼくの?」

きらきらした目で僕を見上げる。

「そうだよ、今日帰りに買ってきたんだ。これ、着てごらん」

服を一枚シリウスに渡すとシリウスは大喜びで袖を通した。ごわごわした布だったけどサイズはぴったりだった。テーブルと椅子を机の上におき、食器をその上に並べた。

「シリウス、どうだいこれ?」

振り返って僕は目を疑った。人形用の服がまるでちゃんと仕立てたかのような柔らかいものに変わっていたんだ。

「シリウス…その服…?」

「ねえ、カズヤ、それ見せて、ぼく座りたい!」

ベッドの上でくるくる回っていたシリウスは机の上のテーブルセットを見つけてさらにはしゃいだ。僕はシリウスを手に乗せて机へと移してやるときにまじまじと服を見た。デザインはそのままだけど、材質は全く別のものに変わってしまっていた。シリウスはいったい何者だ?普通に考えてこんなちっちゃい人間なんているわけないけれど、それでも何故だか人間のような気がしていた。

机の上のテーブルセットにいるシリウスは、どこから見ても今日店で見たようなドールハウスの一部だった。

「シリウス、気に入った?」

「うん!ありがとう和也。ぼくうれしいよ」

「たくさんは買えなかったんだ。あんまりお金ないしね」

「ぼくこれだけでいいよ」

にこにこして僕を見つめるそのまなざしは朝と少し違っていた。何が変わったのかはわからないけれど、確かに朝とは違う。僕はさっきの疑問をぶつけてみた。

「ねえ、シリウス。どうやって箱の外に出たんだい?」

シリウスの動きが一瞬止まった。戸惑った表情で僕を見上げた。

「ぼく、よくわからない。雨が見たかったんだ。そしたら窓のところにいたの」

「気がついたら?」

「うん、そう。…ぼく、変なのかな?」

悲しそうな顔をした。傷つけたかな…、と僕は後悔した。

「変じゃないよ。きっとシリウスは凄い力を持っているんだよ。僕にはできないことができるんだ。素敵じゃないか」

僕は一生懸命に言った。シリウスの顔が少し和らいだ。

「いいんだよ、シリウスはシリウスだから。僕は君の事変だなんて思わないよ」

「ほんとうに?」

「もちろんだよ。そりゃ、最初は驚いたよ。突然箱の中から出てくるんだから。でも今は平気だよ」

「ありがとう!」

シリウスが元気を取り戻した。ほっとした。シリウスはまるでガラス細工のような心を持っていた。何も考えずにうっかり触ると壊れてしまいそうだった。それでも白い服を着た小さなシリウスは、何だかとても僕の気持ちを和ませてくれた。

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2008年11月 5日 (水)

天使の落とした涙の中に #4

「さて、何をおごってもらおうかな」

坂井は飲食店のほうへと目を向けだした。忘れてた。それがあったんだ。

「うどんか、ラーメンで我慢してくれよ。手持ちがもうない」

「当たり前だろ、あんなに一気に買ってんだから」

あっさり言われてしまった。

「別にいいけどな。じゃあ、ラーメンにする」

二人でよく行くラーメン屋に入った。坂井はチャーシュー麺にライスまでつけやがった。僕はもうこれ以上出費できなかったから、普通のラーメンだけにした。ラーメンがくるまでサッカーの話題で盛り上がっていたけど、ラーメンがくると食べるのに夢中になり話題がとぎれた。半分くらい食べたときに坂井が話しかけてきた。

「お前さあ、あれから莉那ちゃんとどうなってんの?」

痛い質問だった。

「どうって言われてもなあ。自然消滅みたいなもんだよ」

「そうかあ、つらいな」

「まあ、でも僕が悪いんだし」

「半分はな」

坂井はさらっと流してくれた。

「あーいうのって、お互い様じゃないの?大変なのは間違いなく女の子だろうけどさ、もとはどっちも悪いと思うな」

「そうなのかなあ」

「だって、そうだろ?二人ともちゃんと気をつけてればよかったんだしさあ。お前も反省したんだろ?」

「したよ。かなりね」

「でも、だからって自然消滅はだめだろ。一回ちゃんと莉那ちゃんと話してみたら?」

意外な言葉だった。あの喧嘩寸前の一件があって以来、たいがいどの友達もあまりその話題には触れてこなかった。サッカー部員たちと話をしたとしても、親と謝りに行ったところくらいまでしか話さなかった。

「なんて言えばいいのかわからないよ」

「難しいよなあ。でもさ、子供一人死んだって言うか、死なせたって言うと言葉悪いけどごめんな。けどそういうのって彼女はお前よりしんどいと思うし、好きだったんならちゃんと話するべきだと思うよ」

「そこまで考えたことなかったよ」

僕は食べかけのラーメンに目を落とした。

「なんていうか、けっこうそういうの、俺よく聞くんだよな最近。誰かは二回堕ろしたとか、失敗したとかなんだとか。おかしくない?平気でそんなこといってんだぜ。なんとも思わないのかなあ」

坂井はそう言うと残りのラーメンを一気に食べてしまった。

「だからさ、俺お前にはそんな奴らと一緒になって欲しくないわけ。もしそうなったら、俺お前と友達やめるよ」

ものすごく大人な考え方だと思った。ていうか当たり前にそんな風に言い切れるのがすごかった。

二人で店を出てすぐ坂井の携帯が鳴った。

「もしもし…、ああ、なに?…え?今は和也と一緒。…今から?どこで?ちょっと待って。なあ、順と拓哉たちがフットサルするんだって。お前も行く?」

「あ、僕は今日はパス」

「OK、ああ、もしもし。俺だけ行くわ。え、和也は忙しいの。うん、じゃあ後で」

坂井がカバンを持ち直して僕を見る。

「じゃ、俺行ってくるわ」

「うん、今日はサンキュー。さっきのこともちゃんと考えるよ」

「がんばってくれよ」

坂井は手を上げて走っていった。僕も家に向かって歩きながら考えていた。確かに僕はあの時、莉那がどんな気持ちでどんなことを考えていたのかなんて想像したこともなかった。僕には一生わからない痛み。でも僕は理解しようと努力することさえしなかった。

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2008年10月30日 (木)

天使の落とした涙の中に #2

十一月の最後の金曜日、僕はクラブで帰りが少し遅くなり、まず晩飯を食べて風呂に入り親が帰ってくるまで居間でテレビを見ていた。部屋に上がったのは十時半を回っていたと思う。ベッドに横になり、何気に机の上を見た。見覚えのない白い箱がある。見間違いか?僕は起き上がった。今朝、あんなところに箱なんて置かなかった。親は僕より少し前に家を出ているし、誰かが置くなんてありえない話だ。すると突然その箱が部屋いっぱいに光り始めた。僕は目が眩み、一瞬何もわからなくなった。どれくらい光っていたのだろう。たぶんほんの何秒かだったと思う。それでも光が消えた後も、しばらく僕は周りが見えなかった。

「いったい…?」

僕はつぶやいた。その箱は僕が気がついたときと同じようにそのまま机の上にあった。恐る恐る僕は机に近づいた。箱に蓋はない。そっとのぞいてみて、僕は飛び上がるくらい驚いた。きっと腰を抜かすなんて感じはこんなときに起こるんだろう。僕はかなりのパニック状態だった。なぜならその箱の中には五センチくらいの、ほんとに例えるなら女の子がカバンなんかにつけているようなキューピー人形が入っていて、しかもそれは人形なんかじゃなくしっかりと動いていたからだ。

何をどうしたものか。僕は現状がつかめないでいた。夢か?錯覚か?疲れてんのか?僕はぶるぶるっと頭を振って、きっと気のせいだ、ということにしてもう一度箱の中を見た。…いる…。両手をしっかりとにぎりしめて、まるで赤ん坊のようだった。赤ん坊?ふと僕は怖くなった。これはもしかして水子の霊とかいうやつか?莉那の堕ろした子供が僕を怨んで出てきたのか?そう考えるともう恐怖でしかなかった。怖くてたまらない。思わず叫びたくなるような衝動にかられながら、僕は箱の中を凝視していた。

しばらくして気がついた。その人形のような得体の知れないモノが箱の中で小刻みに震えている。寒がっているのか?霊が?そう思ったとき、僕はなぜだか突然何のためらいもなく箱の中に手を入れ、その赤ん坊のような人形?を手にのせていた。

暖かい!

気のせいか?いや、違う。それはちゃんと手の中にいたし、体温を感じることもできた。けれどどうしたものか。この後僕は何をすればよいのかわからず、しばらく突っ立っていた。この子の震えは止まっている。何が何だかわからないが、とりあえずこの子は実在して生きているようだ。

そのとき突然ドアをノックする音がした。

僕は本当に飛び上がるくらい驚いた。ドアが開いて母親が顔を出す。

「洗濯物ここにおくわよ。…なにそんなびっくりした顔で突っ立ってるの?」

母は不思議そうに僕の顔を見た。

「これ…」

と僕は両手を差し出した。呆然としている僕をあきれた顔で見ながら母は言った。

「何、手汚れたの?じゃお風呂に入りなさいよ。まだ入ってなかったの?」

ドアが閉まって母が去っていく足音を聞きながら僕は固まっていた。手の中にははっきりこの子が眠っている。なのに母には見えないのか?

もうどうなっているのかわからなかった。

そのとき、この子が少し身動きした。心臓が止まるかと思った。もう少しで僕はこの子を床に落とすところだった。僕は母の持ってきた洗濯物のところへ行き、タオルを一枚取った。机に戻って箱の中にそれを敷きその上にこの子をそっとおろした。少し身動きしたが眠ったままだ。僕はそっと机を離れ、とにかくもう一度風呂に入ることにした。

バスルームで僕はお湯の中に沈みながら、ゆっくり今起こったらしいことを考えてみた。どう考えても非現実的だ。やっぱり気のせいだったのか?あんなにはっきりと母に見せたのに、母は気がつきもしなかったし、顔色ひとつ変わらなかった。もしかして母が仕込んだのか?僕は疑った。けれどそんな手の込んだいたずらをするような母ではない。第一あんな人形をどうやって用意するんだ。

結局わけのわからないまま風呂を出て、さっきのことが気のせいでもうあの箱がないことを祈りつつ部屋へ帰った。ドアを開け机の上を見る。箱は、まだあった。静かに近づいてのぞいてみる。あの子はいなかった。よかった、やっぱり気のせいだったんだ。そう思ってタオルを引っ張るとその間からあの子が出てきた。

「うわあっ!」

思わず僕は叫んだ。そのときその子が目を開け、僕を見た。くりっとした小さな目が僕をじっと見つめていた。

「君は…、誰?」

小さな声しか出せなかった。

「ボクハ、ボクダヨ」

返事が返ってくるなんて思わなかった。

「名前は?」

「ナマエッテナアニ?」

「何って、なんて言うんだろう?君を呼ぶときにいるんだけど…」

僕は上手く説明できなかった。

「ナマエッテミンナニアルノ?」

「そうだよ、僕は和也」

「カズヤ?」

「そう」

沈んだ表情をするのを見ながら僕はさらに聞いてみた。

「親とかさ、誰かが君の呼び方を決めてくれなかったの?」

「オヤ?オヤッテナアニ?」

「お父さんとお母さんのことだけど…?」

僕がそういった途端目を丸くしてタオルの中にもぐりこんでしまった。

「どうしたの?」

「ボク、ボクハダレモナマエヲキメテクレナカッタヨ」

タオルの中から小さな声が返ってきた。

「ボクニハナマエヲクレルヒトガイナイ…」

どうやら泣いているようだ。困ったな…と僕は考えて名案が浮かんだ。

「じゃあこうしよう。僕が君に名前をつけてあげるよ。そうだなあ…」

考えているとタオルの下からそっと顔を出してきた。何だかハムスターのようだ。と思った。でもさすがにハムスターなんてつけたら可哀想だと思い、いろいろ考えてみた。

「ボクノナマエ?」

涙に濡れた目でじっと僕を見つめている。ものすごく期待したまなざしだ。

「うん、名前だよ。ちょっと待って」

僕は十分くらい考えていた。その間ずっとこの子は僕を見つめ続けていた。

「シリウス…」

何気に僕はつぶやいた。

「シリウス!!」

即座に叫ぶ声が返ってきて僕はものすごく驚き、彼を見た。

「ぼくの名前はシリウスだね!」

嬉々として箱の中で踊っているような感じだった。違うんだけど…と心の中でつぶやいたが、この子の喜んでいる姿を見て、シリウスも悪くないか、と思い直した。シリウスは星の中でも有名だし、この子はまるで星の光の中から出てきたみたいだったからぴったりだと思った。まるでマンガだけど。

「よろしくね、シリウス」

「うん、カズヤ、ありがとう」

僕はいつの間にかシリウスの存在を受け入れていた。ほんの少し前まではものすごく不安だったのに、こんなにも非現実的な現実を不思議とも思わなくなっていた。

「シリウス、今日はもう寝よう。明日は土曜日だし、クラブも早く終わるから。それまで一人だけど待っててよ」

「カズヤ、どこへ行くの?」

「学校だよ。まだ高校生だからね」

「ガッコ?コーコーセ?よくわからないや」

「うん、また明日いろいろと教えてあげるよ。さあ寝よう。シリウスはそこでいい?」

シリウスは箱の中を見回した。そして少しうつむくと、

「カズヤのところがいい」

と小さな声で言った。寝ている間に僕が押しつぶしてしまいそうな気がしたが、シリウスを見るとイヤとは言えなかった。

「いいよ。じゃあこっちにタオルを持っていってあげるよ」

僕は箱の中に手を入れ、シリウスごとタオルを取り出しベッドへ連れて行った。シリウスをベッドの上に下ろすと彼は喜んで布団の上を転がりまわった。その間に僕はタオルを小さな寝袋風にたたみ、枕元に置いた。

ひょっとシリウスを見ると布団の中で丸くなって眠ってしまっていた。僕は思わず少し笑って、彼をタオルの布団へと移し、僕もその隣で横になった。

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2008年10月29日 (水)

天使の落とした涙の中に

あなたは知っていますか?

この世に在る命を

守るべきものを

尊きはなにかを

今一度考えてください

生命とはなにかを…

命の重みなんて考えたこともなかった。

僕たちの年代はその日の生活に満足していればそれでよかった。

誰かが傷ついていたってそれは単なる他人事で、気にするほどのことでもなく、ましてや目に見えないことまで気に掛けるはずもなかった。

僕だって、実際自分の身に起こったことでなければこんなにも色々と深く考えることはなかったはずだ。

あの一ヶ月間が、僕に命の大切さを、人間が本来持たなければならないモラルのようなものを教えてくれた。

僕は高橋和也、M高校の二年。サッカー部に所属。レギュラーではないが準レギュラーでそこそこ試合にも出ている。といっても、サッカー部自体がそれほど強くもないから言うほど目立つこともない。当たり前だがこれ以外に何の肩書きも持っていない。他愛もない高校生活。僕も普通一般の単なる高校生だった。一年のときから付き合っている莉那とは一年半。よく喧嘩もするけど結構うまくやっているほうだ。僕の親は飲食業をやっていてほとんど家にはいなかった。だからクラブのない日曜日なんかはよく莉那と二人で過ごしていた。ゲームをしたり、ビデオを見たりしながらやることもきっちりヤッていた。莉那はいつもちゃんとコンドームを持ってきていていた。初めのころは僕も持っていてちゃんと使っていたけれど、一年を過ぎたころからだんだんと面倒くさくなっていて、莉那の「今日はダメ」と言う日以外はあまり使わなくなっていた。

その日は突然やってきた。昼休み、莉那に呼ばれて僕は屋上へ行った。朝登校するときから莉那の様子は変だった。あまり話もせず、時々遠い目をしていた。僕は別れ話だと思っていた。けれど彼女の口から出た言葉は違っていた。

「和也、私妊娠してるみたいなの」

僕には、莉那の言っている言葉が理解できなかった。

「まさか、冗談だろ?」

僕はそう言うのがやっとだった。他になんと言っていいのかわからなかった。

「冗談?冗談でこんなこと言うわけないじゃない」

怒っていた。彼女は僕を睨みつけた後、静かにため息をついた。

「どうしよう…」

「どうしようって、言われても…。どうするんだよ」

まさか、だった。学校の中でそんな話を耳にしたこともあった。けれどまさか自分がその立場になるなんて思ってもみなかった。明らかに僕は動揺していた。莉那のことを考える余裕なんて少しもなかった。考えたのはただ、どうすれば自分に害が及ばないか、ということだけだった。無言でいる僕に莉那はポツリと言った。

「産めるわけ…、ないよね」

その言葉を聴いて僕はそのとき初めてまともに莉那の顔を直視した。

「産むつもりだったのか?」

「わからない。けど私、和也のこと好きだし、好きな人の子供が私のお腹の中にいるのよ。やっぱり…」

莉那は自分の腹部に手を当てて、ゆっくりと撫でながらそこで言葉を切った。彼女は僕が考えている以上に悩んでいたんだ、ということに気付いたのはもっと後になってからだった。このときに僕が莉那に対してもっとちゃんと考えていれば良かったのかもしれない。けれどそんなことは結果論であって、そのときの僕はただの大人の振りをした子供だった。

それからの僕たちはそれぞれに大変だった。結局彼女は子供を堕ろすことになり、僕は両親に散々怒られた後(母は泣き続け、父は僕を殴り飛ばした)莉那の家に行き、僕と両親の三人そろって莉那の両親に頭を下げまくった。僕は最後まで莉那としゃべることはなかった。

彼女は一週間学校を休み、僕も三日間停学をくらった。もちろん学校では散々うわさが流れていた。親からはとにかく家から一歩も出るなといわれ、携帯も取り上げられた。

三日間僕は一人きりだった。無性に苛々していた。なんで僕がこんな目に合うのか…そればかり思っていた。父や母は普通にしていたつもりだっただろう。けれど僕には嫌悪感を覚える、居心地の悪い空間だった。部屋にこもって、両親が出かけると居間でテレビを見て過ごした。おもしろくもなんともないテレビ。つまらないワイドショー。退屈な昼ドラマ。再放送の番組。だらだら過ごす時間が腹立たしかった。外に行けないことはない。でも僕はそうしなかった。僕に起こった事実を認めることはできなかった。

僕が謹慎処分明けに行った学校は、家よりももっと居心地が悪かった。クラスの女子の目はあからさまに冷たかった。僕が行く先々で、誰かが僕を見て囁いている。なんで僕が責められているんだ。なんで僕がこんなに嫌な思いをしなければいけないんだ?その思いだけが僕に付きまとった。

せめてもの救いはクラブだった。監督は特に何も言わず、いや、一言いってたっけ。

「自分のことだ。ここには関係ない。ボールを、チームメイトだけを見ていろ」

 なんとなくだったけれど、ここには僕の居場所が確保されている気分になれた。

 問題が起こったのは、そのすぐ後だった。

 僕は練習の準備をするために、他の部員たちとグラウンドに出た。すぐ隣で陸上部が同じように練習準備をしていた。

「あいつだろ。ほら、5組の女子の…」

嫌でも僕の耳に届いた。あざけるような口調。そいつらははっきりと僕を見ていた。僕はカッとなった。

「なんだよ!そんなに珍しいかよ!」

 僕は飛び出した。慌てて周りのサッカー部員たちが僕を押さえた。

「やめろ、和也!相手にすんな」

「離せよ!あいつら、許さねえ!僕の何を知ってんだっていうんだよ!」

「なんだよ、やんのかよ」

相手も前に出てきた。僕は何が何でも一発殴ってやりたかった。僕だって被害者なんだ!僕だって好き好んでこんな状態になったわけじゃない。それしか考えられなかった。

「和也!いい加減にしろ!また停学だぞ!」

僕を押さえていた部員たちは、力ずくで僕をその場から引き離した。むりやり部室に連れ戻された僕は、怒りのやり場がなくなってあたりかまわず暴れた。ロッカーを蹴飛ばし、壁を殴り、頭を抱え込んだ。

「ちくしょう!なんでこんな目に合うんだよ!ちくしょう!」

 部員たちは何も言わず、静かにその場に立っていた。誰も何も言わなかった。部室の中には僕の罵声だけだった。しばらくして、一人が声をかけてきた。

「和也、もういいだろ。俺たちはお前のこと知ってるよ。言いたい奴には言わせとけよ。だからもう止めろよ」

「何がわかってんだよ。お前らだって僕のこと笑ってんだろ。もういいよ」

「いい加減にしろよ!本当にそう思ってんなら、止めたりしないよ!少しは落ち着けよ!」

 僕は周りを見回した。みんな僕を見ている。僕はふっと肩の力が抜けた。

「ごめん、みんなに当たっても仕方ないよな…今日はもう帰るよ」

 ロッカーから荷物を取り出した。力なく部室を後にしようとした時だった。

「明日は練習来いよ」

 振り返るとその場の全員が僕にガッツポーズをして見せていた。

「サンキュ」

 僕は久々に笑顔になれた。

 この日のことは危うく大事にはならなかった。先生の耳に届いたのかどうかは知らない。けれど僕は呼び出しを受けることもなかった。もう僕は周りが気にならなくなった。忘れることにした。そうすれば楽だったから。

そんな話を莉那は誰かから聞いていたのだろう。学校に出てきた莉那は、僕に話しかけてくることもなく、僕も彼女になんと言っていいのかわからず、結局自然消滅みたいになってしまった。

僕たちのうわさもあまり聞かなくなったころから僕はなんだか寂しさを感じるようになった。けれどやっぱり莉那に話しかけることはできず、取り上げられた携帯がようやく僕の手元に戻ってきてもメールを打つ勇気さえ出なかった。

もう、忘れよう。全てを。何もかもを。過去にしてしまえばいい。そうすれば楽になれる。

僕はそう信じることにしたんだ…

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